雛遊びから雛祭りへ

——まだ肌寒い季節ですが—

33日がひな祭りになったわけ

 古代中国には、3月の最初の巳(み)の日に、川に入ってケガレを浄める“上巳節(じょうしせつ)”という催しがありました。それが日本に伝わり、毎年日にちが代わる巳の日より、固定したほうが便利ということで、奈良時代には3日と定められました。奇数は縁起が良いと考えられていたので、奇数が並ぶ3月3日が選ばれたのでしょう。

 お姫様達は自分の身代わりとして下女を海や川に行かせて身を浄めていたそうです。ところが、春まだ浅く、水に入るのは大変なので、やがて紙や草で人形を作り、自分の身を撫でて厄や災いを「ひとがた」に移し、それを海や川に流しに行きました。今でも残っている流し雛の行事は、かつての水辺でのお祓いの名残です。

●小さな人形遊び

 一方、平安貴族のお姫様達は、「ひいな(小さな人形)遊び」というままごと遊びを楽しんでいました。この「ひいな遊び」と「ひとがた」を流す行事が長い歴史の中で結びつき、雛祭りという形になりました。

 室町時代に生まれた最初のお雛様は、棒の先に土団子を付けて顔とし、それに紙の着物を着せた立雛でした。やがて、着物が布になります。

 元禄時代ともなると、経済の発展に伴って人形制作の技術も向上し、座り雛が登場。制作年代とは必ずしも一致しませんが、通称、室町雛、寛永雛と呼ばれます。これらの雛は両手を開いた簡素な物でした。次に生まれたのが享保雛。絢爛豪華な衣装をまとい、煌びやかな冠を乗せ、面長で気品ある顔、その大きさで他の雛を圧倒しています。

●有職故実を表現

 そして、公家の装束や調度が有職故実に基づいて作られた、有職雛が登場。次に京都の人形師である次郎左右衛門が創始したのが次郎左右衛門雛。「きめのよい団子に目鼻 次郎左右衛門雛」と川柳に詠まれているように、真ん丸い顔に引き目鉤鼻の愛らしさで人気を呼びました。

 京都を中心に発達していた雛が、江戸後期になると江戸が流行の発信地になりました。寛永の頃に登場した古今雛。人形師・原舟月(はらしゅうげつ)が創始した雛は、目にはガラスが使われ、衣装は金糸銀糸で縫い取りをした豪華なもの。

●職人の意地が生んだ芥子雛

 江戸時代には、度々、奢侈禁止令(しゃしきんしれい)が出されます。大型雛がご法度になると、職人の意地は小ささに向かい、江戸時代中期には芥子雛が作られます。高さ3センチ以下の雛をこう呼びました。中でも上野池之端の七沢屋の雛と雛道具は、小さいながらも精緻な細工と豪華さで有名です。

 さまざまな施設でひな祭りが行われる季節。お雛様の歴史の思いをはせて時代の変遷を楽しんでみませんか。